「武蔵野市」の音楽とは?〜唱歌・校歌から考える(NPO高齢者の音楽を考える会代表・庵原えい子さんインタビュー)

井の頭公園には、著名な音楽家である中田喜直や野口雨情の碑があります。加えて野口雨情は、武蔵野市立第一小学校の校歌を作詞しています。

多くの音楽家が関わりを持っていた武蔵野市。その背景や携わり方には、どのような特徴があるのでしょうか。

インタビューを行ったのは、NPO法人、高齢者の音楽を考える会(以下、KOKOの会)の庵原えい子さん。

庵原さんは、KOKOの会が発行した書籍『武蔵野市ゆかりの音楽家』にて、市と関わりがあった音楽家の活動についてまとめられているほか、公立小・中学校の校歌についても調べられています。

当日は書籍の作成にも関わったお二人にも加わっていただき、武蔵野市と音楽について、様々な角度からお聞きしました。※新型コロナウイルス感染拡大防止のため、インタビューの形式はZoomとなりました。


【庵原 えい子(いはら えいこ)】
北海道池田町出身、国立音楽大学教育音楽学科卒業。1990年度より音楽療法を高齢者施設にて実施。2003年、NPO「高齢者の音楽を考える会」を設立し、理事長に就任。2005年より武蔵野市教育委員会主催生涯学習講師。毎月50か所以上施設で音楽療法を実施するほか、講演・執筆等多数。専門は声楽・ピアノ。

【松永 直子(まつなが なおこ】
国立音楽大学教育音楽学科卒業、ピアノ講師。PTAコーラス指導や、コミセン便りの作成などを担当。

【小嶋 佳那(こじま かな)】
岡山県岡山市出身、京都大学法学部卒業。メーカーの経理部に勤めたのち、大阪芸術大学通信教育部にてデザインを学び、現在はフリーのデザイナー・イラストレーターとして活動中。KOKOの会のHP、著書のデザインとイラストを担当。


−−まずはKOKOの会の活動と、設立経緯を教えてください。

庵原えい子さん(以下、庵原):活動の大きな柱は、高齢者施設への音楽療法の提供です。現在メンバーが30名ぐらいおります。8割が音楽大学出身者です。

最初はボランティアで施設などに伺っていたのですが、そこで何人かが知りあうことがあって。そこで、施設だけじゃなくて、他にも幅広くいろいろな活動をできる方法はないかしらえ、なんという漠然と考えていたんです。ある時、東京女子大学の女性の先生(杉森長子先生)にお会いしていい方法がないか相談したら、先生がNPOという形態を考えてみたらどうか、と。そこから調べて、なかなかこれは私たちのこれからやりたいこと、やろうとしているようなこととが上手くいく方法かなと思って、それで(始めた)。最初は4、5人でしたけれど、色々形を整えて、今に至るということです。

コロナ禍以前は月に50回活動があったんです。それが今はコロナで、歌うという事がダメという、飲食と音楽はなかなか厳しいところがあって。今は月に15回くらいになっています。それもzoomを使ってオンラインで配信しているところが半分くらいかな。

zoomと対面では、えらく違います。今も小嶋さんにお子さんがいらっしゃるけれど、子供は、こういう画面が当たり前と思って大きくなっていくわけでしょう。ところがわたくしたちもそうですが、高齢者はいうものを全く考えてもいない世界ですから。受け入れるほうも大変。こちら側も、音もきちっとしなくてはいけない、それから音楽ですから途切れてもいけないし、それからできるだけいい映像をお届けしたい。そういうことを考えて本当に大変でした。

−−KOKOの会は、『歌いつなごう 武蔵野市ゆかりの音楽家』として、武蔵野市の音楽、音楽家についてまとめた冊子を作っていらっしゃいますが、調べようと思ったきっかけはなんでしょうか?

庵原:著書『歌って元気心とからだ』(ドレミ楽譜出版社)を制作していた時に、武蔵野市に著名な音楽家の方々が住んでいたことを知ったことがきっかけです。まず、野口雨情さんと服部良一さんが武蔵野市にいたということは、私は記憶として知っていたんです。野口さんが武蔵野市に住んでいらしたということを知っていらっしゃる方は、結構多いかもしれない。それと服部さんのお住まいがうちのすぐそばだったんですよ。そういう話を前々から聞いていましたので。この本を出版した時に、こんなに色々な作品があって、こんなに武蔵野市にいらしたんだわ、なんて思いました。

−−音楽家が武蔵野市に集まってきた経緯はどんなものなのでしょうか。

小嶋佳那さん(以下、小嶋):一つは関東大震災でしょうか。震災で中心部が燃えてしまったから、被害の少なかった武蔵野に移住してきて。たしか野口さんでしたっけ、ひとり作家さんがいたからそこに集まるようにしてというところも、もしかしたら(あったかもしれない)。人たちが来たから、また(別の人が)集まってきてというのはたしかあったかもしれないですけれども。

庵原:その時(野口さんの)息子さんがおっしゃっていたのは、昔の武蔵野は(中心から)遠いところで、地価もそれなりに安かったと。ある程度の費用で、住まいとしてはいい広い土地をえることができるので武蔵野にしたということです。震災、それから戦争のあと、そういう方(文化人など)たちが進んで住むようになっていらっしゃいます。戦争というのは空襲で家がなくなっちゃうので、危ないというので、中田喜直さんはそう(それで移住した)、それでこちらの方に。もともとお父様が三鷹に土地を手配してあって、そこに住んだらしいんです。でもすぐに自分で武蔵野市の今の御殿山というところ、そこを購入してそちらにずっと長いこと住んでいた。中田さんとしては、武蔵野の市民だという意識があったと言われていました。

−−当時の武蔵野というと緑も多くて、という印象でしょうか。

庵原:緑ばっかりじゃないかしら(笑)家の方が少ないと思いますよ、昔の写真を見ますと。この辺も、別荘地とまでは言わないんだけれども、そう(意識されて)開発されたそうですよ。私が住んでいるところも、セカンドハウスというのを考えて開発されたようなところらしいです。だから普通は皆さん山手線内とか、そういうところにおうちがあって。遠くの方にも、別荘まではいかないけども(家がある)、そんなような感じだったみたいです。

−−こういう土地に来たことによって、彼らの作品とか作風に影響を与えた部分はあるのでしょうか?

松永直子さん(以下、松永):例えば偉大なベートーベンも、ハイリゲンシュタットいうところを散歩して田園交響曲が作られたという有名な話もあるように、関係していないわけはないと思うんですけれども。遠藤実さんのお話でしたか、頭から音を出すのではなくて、いっぱいある映像をパカパカと出していくのが自分の作曲だから、依頼に来た音楽出版社の方が駅につくまでに譜面ができちゃうという話がありました。なので影響していないわけはないと思います。けれど、その時の状況と、自分が持っているストックされたものとの兼合いじゃないかと思うんですけれど。私はそのままそれ(武蔵野)が映されているとは思いにくです。

庵原:そうですね。ここにある記事、特に大きい記事は、全員家族の方にインタビューして作ったんですね。

例えばですが、中田喜直の『小さい秋見つけた』という歌があるでしょう。それから『しゃぼん玉』。この歌なんかは、(背景となる)物語がついていると(されてきた)。お嬢さんを亡くして、そして彼女のためにつくったという物語があるんだけれども、息子さんに伺った時にはそんなことは全くないと、はっきりおっしゃっていらして。ただそれを聞いて、皆さんがイメージを膨らませていく。そういうことと一緒にして歌が更に味を増して行くので、それを否定することはないんだけれども、プロの作曲家、作詞家は、状況でこれを作るとかそういうことは、少ないかなと思っています。もちろん、松永さんが言ったように影響していないとは思えない。でも直接的なものでもないかなというところは、このインタビューをしてつくづく感じましたけど。

小嶋:私も松永さん、庵原さんがおっしゃったように、直接的に武蔵野市の風土が作品に影響ということは、もちろん井の頭公園とかでもしかしたら散歩されて何か浮かんだメロディーも中にはあったかもしれないんですけれども、直接的に因果関係を結びつけられるようなというのは見えづらいかなと。ただもしかしたら住み心地の良いところだったのでよりメロディーが出てきやすいとか、そういう影響があったかもしれないですけれども。

庵原:松永さんがおっしゃっていたように、遠藤実さんは、たしか心の中にカメラがあって中のストックが出てくるんだという。なので一つにはもしかして(影響が)あったかもしれないけれども、直接的にはなかなか、この作品はこれがこういうふうに影響したんだという分かりやすい図はなかなか見られないかな。まさにここを歌っているみたいなのがない限り直接的に結びつけるのってなかなか難しいですよね。

−−井の頭公園の中田喜直の歌碑のように、武蔵野市にゆかりのある音楽家の活動を伝えていくようなモニュメントや活動は何かありますか。

庵原:井の頭公園の野口雨情さんの碑などでしょうか。冊子にまとめたものは、写真を撮りに行っていますね。

私たちも武蔵野市の全部を知っているわけではなくて、いろんな方にそれこそアンケートをお願いしたり、知り合いを辿ってお話を伺ったりしたのが多いので、絶対にないかって言われると確信は持てないですが、伺ったものは資料にまとめています。

−−それでは校歌について伺います。冊子にも武蔵野市の公立学校の校歌の作詞者・作曲者が一覧でまとめられていますが、このきっかけはなんなのでしょうか。また調べていく中でどうお感じになられましたか。

庵原:これも作業をしている中から出てきました。例えば野口雨情さんを調べていると、第一小学校の校歌を作っている。そこからこの人も作曲している、この人も作曲作詞している、となり、まとめていきました。

多いとか少ないとか、そういうことは感じませんでした。

ただし、選定されるということは、なんらかの関係があることにはあるんですよね。大野田小学校の作詞をされた土屋さんという方も、確か武蔵野市の水道局の方です。

それから校歌は、知り合いから頼まれたとか、当時有名だったとか、そういうのも結構あります。それこそ服部さんだって、校歌と調べるといろんなものを作っている。古関裕而さんだってそうでしょう。

−−自分(質問者)もインタビューに際して色々調べたのですが、教育委員会から委託される場合もあれば、作詞家と作曲家がペアでやっていることもある。必ずしも地元にゆかりがあるという点で集められているわけでもないんだ、ということは新たな発見ではありました。

庵原:明治のころは、校歌などということはそこまで重要視されていなかったでしょう。

最近の例だと、桜野小学校の校歌を作られた小山章三さんという方、これは私たちが習った先生なのよ。最近は学校が作られたら、もう当然なことのように校歌というのは作っているけれども、昔はそんな事ない。君が代ですら正式な国歌になったのは最近でしょう。(歌詞など)そこまで深くは考えられていなかったのかもしれません。

−−武蔵野市の公立学校の校歌に出てくる主な歌詞を見ると、富士山、秩父、武蔵野といった言葉が多いです。これ以外にも歌詞に関して、特徴はあるでしょうか。

庵原:やはり武蔵野というワードは多かったです。一橋大学の校歌の中にもあります。

−−これはこちらで調べたものなんですが、武蔵野市、国立市をはじめ、東京西部の校歌の中で最も登場頻度が高いものが武蔵野、という言葉らしいです。この言葉の範囲や使われ方、イメージについてはどうでしょうか。

庵原:確かにそうですね。でも(使われているのは)杉並以西な気もします。荻窪はどうだろう。私の世代ではそうではないけれど、母の世代では行きやすい郊外、というイメージでしょうね。

松永:私は昭和の真ん中あたりに生まれていますけれど、若い時はもう武蔵野、吉祥寺は繁華街で、若者の街でした。実家は八王子でしたが、高校生の時遊びにいくのは吉祥寺、みたいな。武蔵野というのは武蔵野市を表していると、そういう風に最初に思った世代かもしれません。一方で、国木田独歩の『武蔵野』とかを見ると、別に武蔵野市のことを言っているわけじゃないので。武蔵野というのは、埼玉も含めた広範囲のことを言っている。それが、もちろん昔からの事情はあるのかもしれませんが、たまたまここが武蔵野市、ということになったのだと思います。

−−おっしゃる通りで、埼玉の高校にも武蔵野という言葉は使われています。また、武蔵野は「紫匂う武蔵野」という枕詞付きの表現で出てくることが多いようです。これについてはいかがでしょうか。

小嶋:私は高校まで岡山にいましたが、武蔵野という言葉は東京に来てから知りました。最初は武蔵野市、というイメージでしたが、JRの武蔵野線に乗ったら埼玉の方まで行ってしまって(笑)。やはり23区よりは西の、埼玉を含んだ広い地域、武蔵野台地とか、そういうイメージなのだと思います。古典に詳しいわけではないですが、「紫匂う」というのも、昔はもっと緑が広がっていた、多分歴史的にはそういうことなんじゃないかと想像します。

−−私(質問者)の高校の校歌にも「紫匂う武蔵野」という言葉がありました。しかも、自分が通っていた小学校も武蔵野小学校。武蔵野市ではないので、逆に武蔵野を市だけの名前として捉えたことはないですね。

庵原:今調べたら、武蔵野市の花、この中に、ムラサキという花と、ムラサキハナナという花がありますね。紫は昔から高貴な色とされていたし、そういうところもあるのかもしれません。

−−歌を繋いでいく上で、今後はどのような活動を行っていきたいですか。また、武蔵野市全体として音楽とまちとの関わり合いを作っていく上で大切なことは何でしょうか。

庵原:小学校や中学校で教えていきたいんです。それを教育委員会とかで相談しているんだけれども、なんとも…(笑)

武蔵野市にゆかりのある音楽家の曲に触れることで、郷土愛じゃないけれども、そういったところを育んでいきたいと思っています。どこかで思い出すきっかけにしたいなと。

中学生の教科書にも載っているような歌を作った人が、実は皆さんと一緒の武蔵野に住んでいたのよ、と言ってあげることで、すごく近い存在に感じられるでしょう。本当はそれが一番なんですが。

でも、市民のみなさんは音楽にすごく興味のある方たちだと思います。実際、1200人入るホール(武蔵野市民文化会館大ホール)で何回も音楽会が開催されて、いっぱいになっていますからね。


おわりに

オンラインで行われたインタビューでしたが、庵原さんをはじめとするスタッフの皆さんの優しい語り口と雰囲気にも助けられ、テンポよく、非常に内容の濃いものになりました。

記事にもあったように、武蔵野市ゆかりの音楽家はたくさんいるのですが、その活動についてはなかなか知られる機会がありません。特に、学校の授業で音楽を学んでいるこどもたちは、知らず知らずのうちに中田喜直や野口雨情の歌を歌っているのではないでしょうか。

校歌はもちろん、唱歌を歌い繋いでいくためにも、歌そのものではなく、それを作った人たちの人生や思考に思いを巡らすことがとても大切なのではないか。未来へとひきついでいくために、考えを改める貴重な機会となりました。

末筆ながら、インタビューにご協力いただいた庵原さん、松永さん、小嶋さんに心よりお礼申し上げます。

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