ビジョンを持って個性のある街にー老舗呉服店 目黒實さん

バウスシアターの本田拓夫さん(記事はこちら)にご紹介頂き、創業90周年の呉服屋「ふじや呉服店」の2代目店主で、商工会議所やアニメワンダーランドの設立においてもご活躍されている目黒實さんにお話を伺いました。(聞き手・編集:福田、金子、平河 文責:福田)

目黒實(めぐろ・みのる)さん
1936年、吉祥寺生まれ。吉祥寺の老舗呉服屋「ふじや呉服店」の2代目店主。武蔵野商工会議所の顧問を務める他、吉祥寺活性化委員会や吉祥寺公演通り商店会でも吉祥寺の振興に尽力。吉祥寺アニメワンダーランドの設立に携わり、近年は吉祥寺今昔写真館委員会の会長を務めたなど、吉祥寺の文化振興にも大きく貢献されている。

(撮影:平河)

呉服屋を継ぐまで
私の呉服屋は1930年に親が創業したんです。1960年に私は中央大学を卒業しまして、長男だったので、親にはぜひ継いでくれと言われたのですが、当時私は短気なもので、女の人と話すのが苦手だったんですね。だから接客なんてできないから勘弁してくれと言って、自動車の電装部品を扱っている株式会社小糸製作所に就職しました。私は学生時代から山登りが好きで、どうしても東京にはいたくなくて、地方に行きたいと。それで面接の時に、南アルプスに近い静岡工場に勤務したいと話したら、珍しくて面白いということで内定をもらったんです。

静岡工場で5年くらい働いた後、本社への異動を命じられて嫌だった東京に戻ってきました。吉祥寺の実家から品川の本社に通うことになったのですが、実家は2階が住宅で1階が呉服屋だったんです。毎日お店の様子を見ながら会社に行くのですが、当時は着物がカジュアルな服装で女性はみんな着てたものですから毎日忙しくて、お店の番頭さんたちが一緒にやってくれって言うんですよ。親にもやってくれと言われて散々悩んだ結果、その2年前に結婚した家内にも納得してもらって、1970年に店を継ぐことになりました。今でも時々家内には裏切り者と呼ばれています。

そうやって呉服屋になったのですが、ずっと店と同じ家で過ごしてきたので基本的に呉服屋の知識は身についていました。接客はやはり苦手ではありましたが、当時はお客さんもみんな着物の知識や理解があったので、好みを言ってもらったら大体単価がこのくらいで、仕立てがどうだって簡単にわかって、非常にやりやすい時代でした。それからずっと呉服屋をやってまして、現在に至ります。

100周年への思い
コロナ禍では入学式や卒業式などお祝いごとのイベントや花火大会も全部なくなってしまって、売上も落ち込んでしまいました。お店を続けるためには色んな給付金や補助金をもらわないと経営が成り立たないということで、国や都や市の制度を徹底的に調べました。それで役所に書類を提出するために昔の資料を調べていたところ、昭和5年の父親の出納帳が出てきたんです。出納帳に目を通しているうちに涙が出るくらい感動しちゃって。僕は嫌々ながら店を継いだけど、創業というのはやはりこんなに大変なことだったんだなと思ってね。それまではだいたい創業86年くらいかなと思っていたのですが、その時初めてお店が創業90周年だということがはっきりとわかって、絶対に頑張って100周年まで続けなきゃいけないと思っています。僕が店を継いだ頃は目の前も呉服屋だったし、一軒挟んで隣も呉服屋でしたが、吉祥寺の呉服屋も少なくなってしまって、吉祥寺でいちばん古い呉服屋になりました。昔は着物がカジュアルな服でしたが、今ではフォーマルな場でもほとんどが洋服になってしまって、着物を着る人はほとんどいない。文化的な事業みたいになってしまっていて、三代目を継いだ息子が100周年まで続けられるか思い悩んでいるところです。私同様サラリーマンだった息子をなんとか口説いて後を継いでもらったのですが、ずっと続けていってほしいですね。

アニメの情報発信基地を目指して
1991年に、吉祥寺の町をブランド化しようということで、活性化協議会という組織ができたんです。私はそれの副会長をやってました。そうしたら、当時の市長から吉祥寺駅舎100周年である1999年の10月に、何かイベントを打ってくれないかと依頼を受けたんです。できたら今までやっているような大売り出しや秋祭りの神輿とかいうイベントじゃなくて、斬新なイベントを打ってほしいと。そこで町で斬新な意見を持っている人たちを4、5人集めて100周年イベントの実行委員会を立ち上げました。当時は町の人たち、商人は、アニメなんて何も知らない。古い人が大勢いてこれは困ったなあと思いましたが、これからアニメは1つのカルチャーにも、産業にもなっていくんじゃないかという思いで素案を作りました。

日本のどの都市も、まだアニメの情報を発信できるような街はなかったのです。そこで、吉祥寺が情報発信基地になろうということで始めたのがアニメワンダーランド。第1回で何をやったかというと、仮装パレードと仮装コンテスト。募集をかけたら、色んな方が応募してくれました。ゲゲゲの鬼太郎にそっくりなおじいさんが来たり、ガンダムの仮装とかね。コピス(当時は伊勢丹)のウッドデッキのところにステージを作って、そこを出発点に町を周ったんです。そして最後にそのステージにまた集結して、コンテストをやりました。あの時、吉祥寺に60万人もの人が来たんですよ。委員長はみうらじゅんを呼んで、私は副委員長をやらせてもらって入賞を決めました。取材もたくさん来まして、テレビはNHKを始め、1チャンネルから12チャンネルまで、カメラが行列をつくって映してるんですよ。新聞でも物凄い評判になったし、ニューヨーク、香港、スイス、ノルウェーからも記者が来て国際的に報じられました。だから、第1回のアニメワンダーランドには記念誌があるんですよね。何かを残しておかないと、ただイベントを打っておしまいだとしょうがないから、小冊子を作ろうということになりました。JRと郵政省をタイアップさせて、最初には市長の挨拶を書いてもらって。江口寿史、北条司、原哲夫、「ドカベン」の水島新司、それから一条ゆかりなど、10名の有名なクリエイターさんたちに挿絵を描いてもらって、最後に1000円のクオカードとイオカードを付けて、記念冊子として3000円で売ったんです。5000部作って、吉祥寺駅、三鷹駅、武蔵境駅と本部のコピスで売りました。そうしたら1時間経たないうちに全部完売して、その日すぐに5000円だとかプレミアがついてね。そのくらいよく売れたんです。

今年はコロナ禍でイベントがなかなか打てないですが、毎年春と秋にアニメワンダーランドで色んなイベントを打ち続けてきて、今年で23回目になります。ただ残念なことにね、当時の武蔵野市、市長はアニメをいわゆる文化として認知しなかったんです。三鷹市とか近隣の練馬区、杉並区とかでは行政がちゃんと「先進的なことだから行政がお金を出して文化として育てていこう」と。そうやって吉祥寺から出たアニメを模倣していったんですよね。ところが、生みの親の吉祥寺はだんだん廃れていってしまって、どちらかと言えば他の市の方が、色んな派手なイベントを打つようになりました。吉祥寺がなぜそうできないかというと、財力がないからです。行政がお金を出してくれないと、できないでしょう?でも、やっぱり吉祥寺にはまだまだアニメの発信基地であるという自負心があるんですよね。

(吉祥寺アニメワンダーランド2020公式HPよりhttps://www.kichifes.jp/wonderland/index.html

武蔵野商工会議所:地域文化の発展に向けて「武蔵野吉祥七福神巡り」
商業と文化はなかなか難しいですよね。相反するものがあるし。あくまでも商工会議所というのは、地域の商工業の振興が順調に捗るように、一生懸命頑張っていく。そこに文化は入っていないですよね。それはやっぱり、武蔵野「市」と協働しながら考えることですね。

ある時、当時の石原東京都知事が、「なぜ日本人はもう少し、自分の地域に自信を持たないのか。毎年多くの日本人が海外旅行に行くが、逆に外国の人たちを地域に呼べるような資産をたくさん持っているはずだ。地域のお宝を発掘して、イベントを考えれば、まちおこしになるんじゃないか」と言ったんです。そこで考えてみると、武蔵野市にはお寺がたくさんあるじゃないかとなりました。商工会議所で私が所属していた商業部会では、毎年お正月に他の街で「七福神巡り」というものをやるんです。どこへ行くかというと、日本橋へ行ったり、下町が多いですよね。柴又や向島、伊東など遠いところまでも行って、七福神巡りしてたんです。そこで、武蔵野市で七福神巡りを立ち上げたら良いと考えて、武蔵野市の有名なお寺さんや神社さんに話をして、平成19年から「武蔵野吉祥七福神巡り」を立ち上げました。それは1つの文化なんですよ。なぜかというと、市内にはこういうお寺があって、神社があって、それぞれにゆかりの歴史があって、宝物もある訳です。そこで武蔵野市の文化を知ることができるんですね。一番有名なのは井の頭弁財天。井の頭弁財天は700年代にできた弁財天ですから、歴史がすごくあるんですよ。それから武蔵境には杵築大社というのがありますけど、あそこは大社ですから、江戸時代から地域の神社をまとめ上げていたんですよね。そんな風にそれぞれの歴史があるんです。そんなわけで、武蔵野吉祥七福神巡りを立ち上げて、チラシを作ったりして、色々頑張りましたね。吉祥寺の駅前から出る特別バスを始めて、1日乗り放題で1000円という乗車券を作りました。そのバスであちこちを周遊して七福神巡りをしてもらって、1年の健康祈願、商売繁盛、無病息災を祈るイベントを作ったんですよ。そうしたら初年度にNHKで取り上げられて、1月1日から10日の10日間で3万人の人出を記録したんです。その翌年は7万人。どんどん増えて行って、今だと13万人か14万人かな。

普通、商工会議所っていうと「なんか堅くて何もやってないんじゃないか。入っても何も利益なんかないんじゃないか」と思われがちですけど。でも、違う。観光事業もやっているんだと。そういうことで文化事業の一環として、平成19年からやっていますね。

吉祥寺の街の変遷——点の時代、線の時代、面の時代
1899年に駅ができるまで、吉祥寺は荒れ果ててお米もできないような痩せた土地で、人もあまり住んでいませんでした。江戸時代の天明の大火の後、江戸幕府の命令で、水道橋にあった吉祥寺というお寺のまわりの住民たちが井の頭周辺に移住しました。彼らの開墾によって開けていった街なんです。だから今でも、よく見ると五日市街道に沿って両側に短冊状に街並みが広がっています。北側には防風林を作り、それから家を作って、南側に畑を作る、というのが昔の吉祥寺でした。それが、駅ができてからだんだんと発展して、駅の周辺に街が形成されていきました。

吉祥寺の街を形成している商人の歴史は、駅ができた1899年から今年に至るまでたったの約120年。歴史や伝統あるものは何もないんです。でも最近は、日本全国どこへ旅しても、「吉祥寺から来ました」と言うと「ああ、あの吉祥寺ね」と言われるようになるくらい知名度が上がりました。「武蔵野市から来ました」なんて言っても誰も知らないけど、吉祥寺はみんな知っています。吉祥寺の商人たちが、みんなで力を合わせて街を作り上げていこうという意欲のある人たちばかりだったことが一番ですね。

僕は吉祥寺の発展を点の時代、線の時代、面の時代という3段階で捉えています。

1)点の時代
初期の吉祥寺は「点の時代」です。駅ができたばかりでまだ何もなかった時に、お店ができてきました。これは大体、1955年くらいまで続きます。お店はみんな初代の人たちばかりです。呉服屋は呉服屋どうし、豆腐屋は豆腐屋どうしで商売敵というように、個々の商店が商売相手に負けるまいとして頑張った時代。これが「点の時代」です。

2)線の時代:大型店の開業と商店街の結束
1959年、今の東急百貨店のある場所に、吉祥寺名店会館という商業ビルができました。吉祥寺の大型商業店舗第1号です。吉祥寺は東京の別荘地だったので、富裕層の人が結構いました。その人たちが新宿や銀座、渋谷に買い物に行ってしまうので、地元でお金を落としてもらうために何かが必要だということで作られました。今の東急百貨店の半分くらいのスケールですけれど、当時としては大型店舗です。都内の有名店を呼んで、屋上は子供達が遊べる遊園地にしてと、当時としては非常に斬新なお店でした。そうしたら、杉並や三鷹、小金井、練馬など吉祥寺の周辺地域からもお客さんがたくさん来るようになって、大変繁栄したんです。

これをきっかけに、吉祥寺に次から次へと大型店が出てくるようになりました。まず西友(1968年開業)ができます。それから今度は、今の中央線が高架になって、高架下に吉祥寺ロンロン(1969年開業、現在のアトレ)ができました。さらに南口にターミナルエコー(1970年開業、現在のキラリナ京王吉祥寺)ができて、大型店がどんどん軒を並べるようになりました。そんな中でも一番大きいのが1971年にできた伊勢丹です。武蔵野市が吉祥寺に百貨店を呼ぼうということで市民にアンケート調査をして、一番になったのが伊勢丹だったんです。今のコピスのある場所に出店しました。1974年には名店会館が東急百貨店になり、さらに今のヨドバシカメラのところに近鉄百貨店がオープンしました。1978年にマルイが南口に移転し、1980年にパルコがオープンします。こうして大型店も出揃いました。

大型店ができると、駅から大型店に行くための道に、路面商店が商店街を形成するわけです。例えば、伊勢丹に対しては駅前通り(現サンロード)。サンロードは駅からアーケードを作って、雨が降った時に伊勢丹の行き帰りに必ずサンロードを通らなきゃいけないようにして、お客を他の商店街にとられないように努力しました。それから、ダイヤ街も、駅から東急までやっぱりアーケードを作るんです。パルコができる時には、平和通りの歩道にあったアーケードを綺麗に撤去しました。青空が見えて太陽を浴びるのが一番いいということで、環境整備をしてパルコを迎えたんです。私の店が面している公園通りも同じように環境整備しました。これが「線の時代」。つまり、商店が結束して、商店街どうしが争った時代です。ダイヤ街とサンロードが争ったり、平和通りとダイヤ街が争ったり。商店街で団結して、今年の歳末商戦はこうしよう、ああしようなんて知恵を絞って、吉祥寺だけでなく周辺からも人を呼ぼうと頑張った時代でした。

3)面の時代へ
1987年に北口の駅前広場が整備されました。それまで、駅前は狭くて危なくて惨憺たる状況だったんですよ。サンロードの人混みの中をバスが走っているという衝撃的な写真も残っています。その辺りから、中央線沿線の街がみんな高層化していきました。新宿はどんどん発展していくし、中野や国分寺、立川も良くなっていきます。京王線沿線や西武線沿線の駅周辺も発展していきます。そうすると、今まで吸収していたその地域のお客様が、地元に留まってしまって吉祥寺に来なくなる。都市間競争ですね。それでは吉祥寺が困るということで、1991年に吉祥寺の商店会長が16人集まって、これからの吉祥寺のあるべき姿を考える吉祥寺活性化協議会を立ち上げました。私もその中の一人でした。

点の時代が線の時代になって、今度は面で吉祥寺にお客さんを取り込もうというのが吉祥寺活性化協議会のコンセプトです。吉祥寺はお店がたくさんあるし、充実した百貨店もある。そのすべてのお店をひとつの面として捉えて、吉祥寺という街全体をひとつの売り場だと考えるんです。例えば、ダイヤ街で何かあった時に、ダイヤ街だけで困るのではなく、街の問題と捉えてみんなで知恵を絞って解決してあげようというような会でした。

この活性化協議会が非常に大きな活躍をしました。それまで各商店会でやっていた売り出しも、吉祥寺全体のイベントとしてやるようになりました。それが今やっている、春と秋のウェルカムキャンペーンに発展していったんです。スケールが大きいから人が集まります。これが「面の時代」の始まりであり、今現在も面の時代が進行しています。

これからの吉祥寺——個性のある街に
これからの吉祥寺をどう考えるかというのは、本当に難しいんですよ。繁華街としての吉祥寺にはネガティブな要素も結構あって、将来に危機感を持つ商業者は多いです。

吉祥寺は「寺」が付いているようにお寺の土地で、地代がすごく高いんです。だから、吉祥寺はこれだけ人が集まってきて商売がしやすく、有名になっているけど、商人の中には歳も取ったし後継者もいないから貸しちゃおうということで、店を畳んでビル賃貸業になってしまう人が非常に多いです。そこにどういうお店が来るかというと、ある程度資金力のあるナショナルチェーンばかりが入り込んできます。そうすると、巨大なコンビニエンスストアみたいな街になってしまう。中心商店街の空洞化です。そうなってしまうと、いずれ街は廃れます。どこにでもある街になってしまうのです。

吉祥寺は確かにブランドとして誇れる街だけれど、このまま行くとまさに凋落の一途を辿ると思います。テナントも来ないようなお店の集団になって、空き家が増えていくようになる。だから、今のうちにこの街をどうにかしようと動かないといけないです。活性化協議会を立ち上げた時は僕らが中心でやっていましたが、そういう人たちもみんなビルを貸してしまって今はもういなくなってしまいました。でも、街が凋落したら今度は自分たちが困るんです。だから、僕らが活性化協議会を作ったように今一度若手を集めて、吉祥寺の近中期的なビジョンを掲げて、行政を動かして予算を取れるような然るべき組織を作るべきだと思います。今では活性化協議会もちょっと力がなくなってしまいましたが、ビジョンを掲げて街を推進していかないと駄目だと思うんです。

やはり、吉祥寺には個性のある街になってほしいと思います。クオリティの高い街にしていかないと、どこにでもある街になって、最終的には駄目になってしまいます。武蔵野市の人口が増加しても、それが売り上げ増には直結しないです。対面販売からネット販売へと形態が変化していくと同時に、モノ消費からコト消費へと消費生活が変化しています。わざわざ訪れないと経験できないようなことがある街や普段なかなか見られない光景に出会える街でないと、街の生き残りは難しい。だから、行政の力を借りながらも民間主導で、もっと真剣に街のビジョンを立ち上げて生き残りを考えていかなければいけないと思います。

(撮影:平河)

聞き手・編集:福田、金子、平河 
文責:福田

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