「武蔵野市メディア文化のレジェンド」大橋一範さんインタビュー

zoomでのインタビューを受ける大橋さん(撮影)

フリーペーパー「週刊きちじょうじ」や「吉祥寺村立雑学大学」など、武蔵野市の文化を語る上で欠かせないメディアを数多く手がけてきた大橋一範さん。本記事では、大橋さんによるメディアづくりの軌跡や武蔵野市に対する想いについて迫ります。

「週刊きちじょうじ」に関するインタビュー記事はこちら→<週刊きちじょうじ編>
「吉祥寺村立雑学大学」に関するインタビュー記事はこちら→<雑学大学編>


1.メディアづくりのルーツ

富山県に生まれ、大阪府堺市で青春時代を過ごした大橋さん。大学で東京に出て新聞研究所に所属されました。大学卒業後一度就職されたのち、メディアへの関心からアメリカに渡米。帰国後に沖縄県で行われた海洋博の手伝いを経て、武蔵野市でフリーペーパー「週刊きちじょうじ」を刊行されました。本章では、大橋さんのメディアづくりのルーツに迫ります。

「メディア漬けだった青春時代」

大学時代の法哲学のゼミ仲間との一枚。大橋さんは左から二人目。(大橋さん提供)

-大学では法哲学を専攻されていたとお聞きしましたが、どうしてメディアに関心があったのでしょうか。

小学校のとき放送部だった。中学校の時に、新聞部担当の先生からスカウトされて新聞部に。で高校は…やっぱり関係してたなあ。高校はいろんなそういう(メディア関係の)クラブみたいなの掛け持ちしてたから。大学は新聞研究所っていうところにいたでしょう。

-学生時代からずっとメディア漬けだったのですね。

やはりメディア人間だってのは事実ね。物を書くとかね、文章をピタッと終わらせるって醍醐味を味わってたのは中学時代。中学時代は、活字の時代。「ここは何個の活字」って決まったら、その通りにやらないとできない、何文字か足りないんだっていうときには、その部分に文章を書いてクサっと収める。その当時それが快感だったね。  

-なるほど。幼い頃から情報を発信することに興味があったのですね。

発信したいってのは多分、その頃の方があったかもしれないね。今の関心はメディアそのものについてどうあるべきかっていう方だね。

-だんだんと内容を作る方から場をつくる方に関心が変わっていったんですね。

そう。だから本当は実務的なことは誰かにやってもらいたいんだ。それをずっと失敗してきた(笑)

2.メディアづくりに対する想い

「週刊きちじょうじ」や「吉祥寺村立雑学大学」はもちろんのこと、「吉祥寺テレビ放送」など、大橋さんが武蔵野市で手がけたメディアは多岐にわたります。大橋さんはどのような想いでこれらのメディアをつくられたのでしょうか。大橋さんのメディアに対する想いとは一体!?

「「場」を、つくる。」

-大橋さんが作ったメディアは「週刊きちじょうじ」や「雑学大学」「吉祥寺テレビ放送※1」など多岐に渡りますが、それらはスペースメディアをつくりたいという共通の想いで作られたのでしょうか。

※1 現株式会社ジェイコム東京

そう、メディアづくりですよね。やはり色々発信したい人っていうのはいるから、その人たちに場づくりをするっていうことですよね。それが紙媒体なのか、場所としてのメディアなのか、電波を使ったメディアなのかというのはなんでもいいんですよ。

-大橋さんは発信することよりもメディアの場をつくることに注力されているのですね。

そうそう。雑学大学だって一つのメディアだから。メディアづくりは得意。作ったらあんまり興味ない。僕はつくったら誰かにやってもらいたい(笑)

-0から1にするとことまではご興味があって、1から10にするところは他の人にやってもらいたいということですね。

そうそう。メディアを拡充するのに向いてないと思ってるから。仕方なしに週刊きちじょうじも続けているんだけどね(笑)

「メディア塾をつくる!」

-メディアづくりに関して今後の野望はありますか。

あるよ。本当はちゃんとしたメディア塾を作って、そこで色んなメディアの勉強をしてもらって。本当はどういうコミュニティでも基本的な何らかのメディアはあるべきだと思っているのね。メディア塾やりたいっていうのはメディアとしての責任というかね、そういうものは当然感じてもらいたいから。メディアをやるっていう時には、本当はメディアの表現の技術というかテクニックというのも必要なんだけれど、それよりも前にメディアとはどうあるべきかという風な考えがやっぱりあった方がいいんじゃないかな。

3.ネットワーク構築術

大橋さんはメディアづくりを手がけるだけでなく、武蔵野ブラショフ市民の会2の理事長を務めるなど、武蔵野市の様々な市民文化活動に参画されています。雑学大学を含め、何らかの会合がある際には、大橋さんが会場を押さえることがしばしば。会場確保においても「場」づくりに貢献されているこの力の源はどこにあるのでしょうか。大橋さんのネットワーク構築術に迫ります。

※2「武蔵野ブラショフ市民の会」ホームページはこちら

「しょうがないネットワーク」

-大橋さんの人と人を繋げたり、会場を押さえたりする人脈作戦みたいなものはどのようにして培われてきたのですか。

信頼ですよね。要するに何らかの関係でその人が僕を信頼してくれないと。今度二葉栄養専門学校でルーマニア料理の講習会※3を3月にやるんだけども、そういう話は、僕は担当の人と話しないの。だから二葉栄養専門学校の理事長は、僕が何か話に行くと、要するに普通だったら、あそこでいろんな講義をしたりとか、受験会場としてやる場合には、有料で貸すわけですよね。でも僕が行くと、僕からは金は取れないと思ってるわけ。だからそういう料理教室をやるときには、お前から取ろうとは思ってないっていうことが最初から前提になってるから、そういう信頼があるわけね。だからあいつが来たらしょうがないっていう、「しょうがないネットワーク」ですよ。

※3 週刊きちじょうじ2397号掲載記事「ホストタウン ルーマニア おもてなし料理」にて詳細あり

-「しょうがないネットワーク」ですか!

「しょうがないネットワーク」ってものすごく大事。例えば子供ががお母さんとこ行って「1万円貸して」って言ったら、「しょうがないね」ってくれるじゃない。でも子供じゃない僕が行ってもくれないでしょ。これがしょうがないネットワークなんですよ。本当は会場を借りるってったらお金払わなきゃいけないんだよ、正式には。俺の顔見たら、「お前からは金取れない」とね、向こうが思ってくれるってのは、そういう信頼でしょ。

-大橋さんは武蔵野市の長期計画の策定委員※4など多くの役職についていらっしゃいますが、基本的には頼まれたらやるというスタンスなのでしょうか。

※4 武蔵野市第二期長期計画策定委員

やってるよね、だからもう最初の委員長みたいなものも結構多くて。委員長って普通大変じゃない。でも僕は「何もしない」っていう最初に宣言してやってる。どういうふうにしてやるかっていうと、最初、じゃあ皆さん、この企画は何をやるんですか? 何やるかみんなメモに書いてくださいって。みんなに紙配って、メモ書いてもらって。そん中でやんなきゃいけないことで、似たようなのが集まってるグループに分けてください。これでやることとやるセクションが決まりましたと。委員長はこれでおしまい。あとはその中で決めてくださいと。そこで担当責任者、部長って言ったのか何か忘れたけどそういうの決めて、そんなかのことやって、後で報告してください。

で、この形でやったから、2回目3回目の会議は市の担当者も委員会の日程ですけどとか相談に来た。何回か経ったら僕の予定を、相談に来なくなった。何もしてないから、みんなで決めていいいんだもん。それで、最後の委員会にやっと僕が出席した。「いかに委員長が必要でないか」っていうのがこれ証明されましたって、言ったんだけどね。だから当日「開会します」っていうこと言うだけでいい。だいたい僕のやり方はそうなの。

-いつからそのような立ち回りをされるようになったのですか。基本的に自分じゃなくて人に任せるようになったきっかけは。

いつ頃だろうね。でもね、本当はそれよくない。というか、よくない面がある。我々パソコン第一世代。そのときに「プログラムをみんなで勉強しよ」ってやったんだけども、あ、「これは誰かがやってくれるな」と思ったら、俺プログラムの勉強をやらなくなった。だから全部頼まなきゃいけないってなったのは良くない。だから最小限のことは、やっぱりできた方がいい。で、わかってながら人に頼んだほうがいい、最悪の場合には引き受けるっていう感じでね。

4.武蔵野市に対する想い

武蔵野市に様々なメディアを生み出し、人と人とを繋げる場を提供してきた大橋さん。1975年に「週刊きちじょうじ」を刊行して以来、一貫して武蔵野市をフィールドとして活動されてきました。武蔵野市の歴史を40年以上その目で見てきた大橋さんは、武蔵野市に対して今何を想うのでしょうか。

「武蔵野市ってどんなまち?」

-「週刊きちじょうじ」を創刊されるにあたり、なぜ武蔵野市を選ばれたのですか。

たまたま住んでたから。本当は渋谷も銀座でもフリーペーパーをやりたかった。本当は「吉祥寺が大好きでフリーペーパーをやっています」っていうのがかっこいいんだろうけど、たまたま吉祥寺に住んでいたから(笑)

-武蔵野市は大学教授の方が多いと言われますが、武蔵野市に教授の方が多いのはなぜだとお考えですか。

各家庭には大体大卒者がいるっていう地域なんですよね。それで、みんな勤めている地域が中央区千代田区都心なんですよ。だから「俺たちは東京背負って立ってる」っていう感覚の持ち主が吉祥寺にたまたま住んでいるんですよ。そういう一言の多い連中が多いから、何かにつけて言いたいこと言うわけですよ(笑)

-年を経るにつれて武蔵野市に対する気持ちに変化はありますか。

基本的にいい町ですよ。この町ってものすごく歴史がある町ではないわけですよ。明治になるまでは本当に寒村だったわけですよ。貧乏な貧乏な町だった。昔の地図を見るとね、吉祥寺の駅のそばなんかを見ると飯田家別邸となっているんですよね。つまりこの辺というのは、都心で大店の人が別荘を持っていたんですよ。だから町になったときは、タクシー会社や靴屋さんが多かった。その後は、成蹊大学ができて、それと共にその周辺に学者が住み始めて。それと中島飛行機というのがあったから、中島飛行機関連のサラリーマンや軍人も多かったわけです。だから、メインはサラリーマンなんです。

-人を中心とした町という印象は、今も変わらないですか?

うん、基本的には変わってない。吉祥寺に引っ越してくる人が「自分たちが中心になって何かを始められそうな町」ってよく言うんですよ。だからそういうイメージを吉祥寺以外の人たちが思っているわけですよ。それにそんなに歴史のある町ではないから、商店街にしても、外から来る人を徹底的に拒むということはないわけです。その辺が吉祥寺の包容力っていうか。

-武蔵野市民の方々は自分たちで何かをやろうという方が多いんですね。

そうそう。だから我々が長期計画をやっていたときも市民参加方式というのが武蔵野で先駆的に出来てるわけで、今じゃ当たり前になって、今では逆に形骸化してんじゃないかと言われてるくらい。

-そこまで市民の方々に主体性があるというのは面白いですね。

やっぱりサラリーマンが多いからじゃない。市の所得水準でいえば、全国でも有数の高い町なんですよ。それだけ税金を納めているから、何かに頼らなきゃいけないではなくて、自分たちのお金で何かをできちゃう。

-もともとリテラシーや批評性が高い方々が多いんですね。

そうね。文句言いたい人が多いんですよ(笑)

「武蔵野市の未来」

-武蔵野市は今後どうなっていくとお考えですか。

吉祥寺は曲がり角に来ているから、今頑張って次の吉祥寺を作っていかないと、「昔吉祥寺っていう街があったね」というようになっちゃうよって言ってる。

-曲がり角っていうのは斜陽化してきているということですか?

つまりね各街々で頑張ってきているでしょ?だって立川だってあれだけ再開発したじゃない。モノレールもあるし。昔立川周辺はあんまりなかったんだよね、でも昭和記念公園があって、それから南北にモノレールが走るようになったし、あれだけの公共投資しているからねお金の力というのがものすごいんですよ。三鷹も再開発が始まって、三鷹の駅前もお金かけて色々やるっていってるから。これから三鷹が力を入れ始めると、吉祥寺だって将来永劫こうとは限らないよね。

-今後武蔵野市はどうやって頑張っていったら良いのでしょうか。

やっぱり行動を起こすべきよ。ずっと待ってるんじゃなくて。今の市長は街づくりについてそんなに行動を起こそうとしていない。だからそれだったら吉祥寺は負けちゃうなという感じだから。


今回、小林ゼミでは2回に渡りインタビューを行い、週刊きちじょうじ編・吉祥寺村立雑学大学編・大橋さんご自身と武蔵野市について扱った本記事、と3部作で大橋さんの活動に迫りました。今回取材を快諾し、ご協力くださった大橋一範さん、本当にありがとうございました。

文責:江口善宜 
編集者:池田寧夢 
撮影者:土井佑夏
聞き手:池田寧夢、江口善宜、土井佑夏、塘内彩月

「武蔵野市メディア文化のレジェンド」大橋一範さんインタビュー” に対して2件のコメントがあります。

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