文化を忘れない街であってほしい-バウスシアター元館主 本田拓夫さん-

2014年に閉館した吉祥寺の映画館「バウスシアター」の館主だった本田拓夫さんに、ご自身の映画館についてや、閉館後の映画制作などの活動、吉祥寺の文化への思いについてお話を伺いました。

本田拓夫(ほんだ・たくお)さん
1944年、吉祥寺生まれ。吉祥寺初の映画館「井の頭会館」の息子として育つ。大学卒業後、父親の2軒目の映画館「武蔵野映画劇場」(後に「吉祥寺ムサシノ映画」に改称)に就職。父親の没後、兄と共に経営者となると、84年「吉祥寺ムサシノ映画」を「バウスシアター」に改築。独立系の映画館として映画に留まらない様々な企画を展開し、吉祥寺の文化・エンタメの拠点として親しまれる。2014年に「バウスシアター」を閉館後は、「吉祥寺今昔写真館委員会」の会長を務め、吉祥寺を舞台とした映画制作にも携わる。

(撮影:平河)

子供時代から大学時代まで
私が子供の頃の吉祥寺は、この辺までみんな住宅だったんです。駅前にほんの少しだけ商店街があるようなイメージで、閑静な住宅街。東京女子短期大学があるんですが、そこが原っぱだったんですね。武蔵野市の自然がまだ残っていた時代で、よく学校の帰りに遊んでいました。ごくごく普通の悪戯っ子でしたね。

中学校は、父親がお前は法政中学校に行けと言ったのでそこに通いました。友達はみんな公立の学校に行くので、自分もそこに行きたくて抵抗したのですが、結局受験にも合格して通うことになったんです。法政中学校、法政高校に計6年間通って、一応大学にも行った方がいいかなということで、推薦の枠にぎりぎり入ったので法政大学に進みました。当時は学生運動があった時代でしたが、そういう人たちを見ながら何やってんだ、もっと人生楽しんだ方がいいよ、もっと不真面目にやれよ、と思っていましたね。

大学を出る1年前かな、当時「武蔵野映画劇場」を経営していた父親が来て「お前大学出たら何やるんだ」と聞かれたので、「サラリーマンやるよ」と返しました。映画館は長男が後を継ぐから、次男の俺はサラリーマンでいいよと。しかしそれはダメだと、映画館をこれから兄弟2人でやってくれよって言うので、自分も武蔵野映画劇場で働くことになりました。

武蔵野映画劇場 企画・営業担当時代
大学を卒業して武蔵野映画劇場に就職して、最初に作ったのは企画・営業担当という名刺でした。配給会社から作品を借りてこないといけないということで、小中高大と地元にしかいなかった自分が初めて都心に出たわけです。慣れない都会の会社に行って営業しても、最初は相手の担当の人にも良くしてもらえなくて、あんまりいい作品を借りられなかったかな。銀座、新橋あたりには配給会社が多かったので、顔を知ってもらうために銀座にたくさん通いました。

映画を借りてくると、今度はそれを宣伝することになるので、ポスターを貼ったり、チラシを配りに行きました。喫茶店や、当時西荻窪から吉祥寺にかけて60軒ほどあったお風呂屋さんに持っていてお願いしたり、人の目につく駅の近くの看板にポスターを貼れるように交渉したりもしましたね。インターネットもスマホも何もない時代でしたから、ドラム缶いっぱいの糊を持ち運んでポスターの四隅に貼っていって、本当に基礎的な宣伝をしていました。また、自分の映画館の映画だけではなく邦画を始めとして色んな作品をよく観にいって、映画について学びながら、影響をたくさん受けましたね。

吉祥寺ムサシノ映画でのロックコンサート〜バウスシアターの船出
ある日、ロック集団が私を訪ねてきて、ここでロックコンサートをやらせてくれと。まあやってもいいけど木造だから音が漏れて必ず苦情が来て、パトカーも来るだろうから諦めてくれって話をしたんですけど、毎日毎日来るんですよ。それで、武蔵野市はロックもできないの?武蔵野公会堂なんかでできないの?と聞いたら、市にはダメだと言われたと言うんで、それはおかしいよねと。自分たちが全部責任持ってやりますと言うので、やらせてあげることにしました。騒音対策はどうするのかと聞いたら、映画館の通路側の窓を段ボールで覆って、布団を持って来て毛布なんかを巻いて、少しは防音になると。夜の9時までしかできないよと言いましたが、結局夜の11時くらいまで続いたんですよ。そうしたら案の定パトカーが来て、近隣から苦情が来てるからやめさせろって言われましたね。

コンサートが終わった後に、文化都市武蔵野がロックもできないだなんて、文化都市じゃないんじゃないのと兄弟で話をしました。そこで、そういうことができる劇場を作ろうよと言って映画館を建て替えまして、コンセプトに「なんでもできる」ということを掲げました。それがバウスシアターの船出ですね。

「つまらねえ吉祥寺よさようならだ。おもしろくいこうぜ。」をコピーに掲げたバウスシアター
(本田さんの著書『吉祥寺に育てられた映画館』(文藝春秋)より)

バウスシアターの日々
バウスでは色んなジャンルのことをやりましたね。市の管理下ではできないようなことをバウスでできるようにしようと。音楽ライブだけじゃなくて落語や演劇、パフォーマンス集団なんていうのにも貸したりしました。

苦労話と言えば、例えば演劇の中で火を使いたいと言われましたね。これは消防法でダメなんだけど、それでも使わせてくれと言われて困ったり。あとプールを作りたいって言うから、プールは勘弁してよと。でもこの演劇の人たちがどうしてもと言うから、大きな水槽を作って水を入れてプールを作ったりしましたね。音楽はもう木造ではないので音は漏れないですけど、吉祥寺には馴染みがないようなヘビィメタルバンドがライブをした時には、そういう格好をした若者たちが商店街を歩いてくるのを当時の商店街のお偉いさんたちが見て、何やってんだこれって。

吉祥寺はまだロードショー館がなかったんですね。バウスを作る時にロードショー館にしようと言ってたのですが、配給会社に営業に行ったら「吉祥寺はダメよ」と。「なんでですか」と聞いたら、「映画は有楽町銀座新宿渋谷、それがロードショー館の場所なんだ」と言われたんですね。それでもお願いしますと言いましたが、そうやってランクづけされてしまうことに抵抗を感じました。そうしてロードショーができるような街にしようと頑張りましたが、成功しませんでしたね。

そこで、当時小さな配給会社がいっぱいでき始めていたので、だったらどこもやってないような映画をかけてみようということになりました。配給会社をまわって良い作品を借りてきて、本当に1週間に何人かしか入らないような映画を我慢して我慢してずっと続けてきたら、新聞や雑誌でとても先鋭的な映画を上映する映画館だと言われるようになりました。本当は他にやるものがなかったからそうなっただけなんですけどね。コンサートもやれる音響設備を生かせて独特な作品や音楽、映画を上映したり、チェコの映画や世界的アニメーションの作品を特集したり、独立系の映画館として企画に知恵を絞りました。

「バウスシアター1」の客席。前方左右に巨大スピーカーがある。(本田さんの著書『吉祥寺に育てられた映画館』(文藝春秋)より)

閉館時の思い
父親がやっていた井の頭会館を手伝った時から、武蔵野映画劇場、バウスで60年以上映画館でやってきて、バウスも知名度をあげましたし、自分も70歳になったし、もう定年退職させてくれということで映画館を2014年に閉じました。閉館すると発表した途端に物凄い反響があって、テレビや新聞も押しかけてきて「バウスはもう全国的に有名ですよ」と言われたのですが、自分は全然そんな意識はありませんでした。最後に<爆音映画祭>という企画をやったのですが、毎日たくさんの人が並んで、もちろんスタッフの力のおかげでもあるのですが、すごいなと思いましたね。

閉館するときは、全く悔いはありませんでしたし、やり切ったという意識が十分にありましたね。父親がやってきた映画館では映画だけではなくて浪曲など他の生興業をやっていて、時代に合わせて形を変えながら続けてきて、バウスでも映画以外にも様々な興業をやるようになって、それらをお客さんが楽しんでくれた。それで自分の中ではもう十分だという気持ちでした。

吉祥寺における街づくり
吉祥寺は、ジャズとフォークの発祥の場所なんです。フォークについては伽藍堂というライブハウスが東急の左側辺りの地下にあって、色んなフォークシンガーが来ていました。若い頃に、そこのオーナーである成瀬さんと吉祥寺音楽祭でフォークをやろうという話をしてね。高田渡やなぎら健壱といったメンバーが演奏をしていました。バウスをやっていたからこそ、街の人のためにそのような公演もできたのだと思います。劇場は街と一緒になって、姿を変えながら新しいことを生み出してきました。色んな方が来て、楽しんでもらう街づくりをしようとしてきましたね。「お客さんが買い物の帰りに文化を持って行ってくれる」というキャッチフレーズで、色んなことをしようという話をしてきました。

橋本愛、永野芽郁、染谷将太らが出演した映画「PARKS」(公式Twitterより)
https://twitter.com/parks100jp/status/885912589321908224?s=20

映画「PARKS」と「吉祥寺ゴーゴー」に込められた思い
井の頭公園百周年記念の10年程前に、百周年委員会を作って、その中のメンバーに入れられてしまいまして。それで、百周年に向けて色んなアイデアを出しましたね。花火大会を復活させようとか、森の中でオーケストラに楽器を弾いてもらおう、とかね。そうして3年か4年程経った時に「百周年記念のお祝いに、映画を撮ろう。映画ならPRにもなるじゃないか」と思い、武蔵野市西部公園緑地事務所へ行って、井の頭公園の園長さんと副園長さんと話をして、良い映画を作りましょうという話になりました。その後は、まずプロデューサー・監督を探しましたね。バウスシアターで<爆音映画祭>を仕掛けたboidの樋口さんに相談したら、瀬田監督を紹介してもらいました。映画館をやっていた時から、映画を作ってみたいと思っていましたけど、まさかそれが本当になるとは思っていなかったですね。映画を作りたい、吉祥寺の街のためにもなるし、自分のためにもなる。そんな思いからできたのが「PARKS」ですね。

今から11年前には、吉祥寺今昔写真館委員会の委員になりまして(2020年の5月から委員長に)。昔のものから新しいものまで、吉祥寺の色んな写真を集めて駅前のアトレの地下で展覧会をしたりしましたね。それで自分が委員長としてやっていくうちに、委員会の活動をもっと知ってもらうためには何か伝えていかないといけないと思いました。そこで、こちらの得意分野である映画を作ったら良いんじゃないかと思い、少ない予算の中から、映画を作ることになりました。「PARKS」を作った時のプロデューサーの松田さんに話をすると、監督の藪下さんを紹介してもらいまして。話しているうちに、井の頭公園が主役となる15分くらいの短編映画を作ることになりました。タイトルは「吉祥寺に来てほしい」という意味を込めて「吉祥寺ゴーゴー」に。写真館委員会では、映画を作ることは考えてもいなかったと思いますけど、写真館委員会が色んなことをやっているということを少しでも知ってもらうために、映画でPRした方が良いかなと思ったんです。

2020年に公開された短編映画「吉祥寺ゴーゴー」(UPLINK吉祥寺公式サイトより)
https://joji.uplink.co.jp/movie/2020/6765

文化とは何か:井の頭公園から考える
井の頭公園は吉祥寺の公園ではなくて、三鷹市が管理してる公園で持ち主は東京都。でも、一部武蔵野市が入っている公園。子どもの頃は、必ず公園へ行って遊んでいました。目を瞑っても歩けるくらい。公園には、色んな人、色んな人生の人、色んな思い入れのある人が来て、ある種、劇場に似ているじゃないかと思います。劇場の場合は、人が映画を見て感動して帰っていく。公園だと自然が見る対象になって、もっと感動の幅が広がる。そういう場所が公園で、この街も公園を身近に捉えていかないといけないと、目黒さん(当時の商工会議所の副会長、目黒さんの記事はこちら)と二人で話しまして。吉祥寺が繁栄してきたのは、実は公園が近くにあったからで、こういう自然の財産を活かすことができたから、吉祥寺がある。そんな話を自分たちの中で広げていったけど、吉祥寺の姿もだいぶ変わりましたよね。自分たちで商売している人はほとんどいなくて、全部チェーン店みたいな。だから尚更、公園のことをもっと知ってもらった方が良いんじゃないかと思います。

やっぱり公園が百周年というのは、すごい長い訳ですよね。色んなことが公園の中でありました。花火大会があったり、盆踊りがあったり、象のはな子さんが来たり。我々が子どもの頃は、公園のそういうものの影響が大きかったですね。そういうものを少しでも写真で残していきたいですね。

映画館をやりながら「文化って何なのかな」と考えました。所謂、文字通りの文化だけじゃなくて、街の文化、色んな文化があります。そういうものを、やっぱり映画館屋を通して、自分の中ですごく身近に感じて、考えてきた。それで、文化の中には力がある。素晴らしいものですよ。例えば、映画の力であり、音楽の力であり、色んな力がある訳ですよね。それは色んな人が共有してきて、自分の人生の中で吸収してきてる訳ですよ。だから文化とは、人生において非常に大きな役割を占めている。そういう文化や力を受けてきたから、自分もお返しができたら良いなと考えています。

公園通り商店会、吉祥寺活性化協議会での活動
私はもとからこの街に住んでいる人間だから、自然と商店街の中に住む人と交流があります。ある時に先輩の一人に言われて商店会に顔を出すようになって、そのうちに商店会の一員として活動するようになりました。井の頭公園通り商店街の目黒さんが私の前の商店会会長で、その時私は副会長をやっていまして。目黒さんがやめる時に会長を頼まれて、1期か2期くらいならと引き受けました。自分の中でも「吉祥寺の商店街はこれでいいんだろうか」と思い始めた時だったので、商店会長になってみて、それを商店街から変えてみる、と考えたんです。

「吉祥寺をどういう街にしていくんだ」というのが最終的な問題になります。色んな意見が出ますよね。私は自分の商売、つまり文化的なものを通しての見方だから、意見がまわりとちょっと違うんですよね。武蔵野市は文化都市なのだから文化の都市に戻さなきゃダメなんだぞということで、色んな人に来てもらうために年間いくつものイベントをやることにしました。まず、音楽がこの街の土壌にあるということで、音楽祭をやることになりました。夏には盆踊りをフェスティバル化しました。盆踊りは都会の中で郷愁があるものだし、ここで育った人がまた大きくなってからも自分の子供を連れて街に戻ってくる、そういう街であってほしいという思いからです。秋にはアニメーションワンダーランド。その当時はアニメが出始めて、世界を席巻するような産業に育ってきていた。吉祥寺はアニメ産業関係者やアニメ制作者が非常に多い街なので、その方達に協力いただいてアニメーションフェスティバルを10月に必ずやることにしました。

吉祥寺活性化協議会の会長もやりました。各商店街が特色を持った商店街活動や色んなイベントをやって、吉祥寺は面白いとお客さんに思ってもらえる街づくりを進めたい、と就任の時に言いました。「お買い物の帰りには必ず文化を持って帰ってください」という街づくり、それが吉祥寺のいいところなんです。いつ来ても賑やかで、いつ来ても安全で安心で、街の人もそういうものを一生懸命守ってくれる。そういう街づくりに興味があります。

吉祥寺の商業化に思うこと
吉祥寺は賑やかで、交通の便も良くて、住みやすい街だけれど、住んでいる人たちがだんだん文化性というものを忘れつつある。それがとてつもなく残念だと思います。やはり、生活を営む中で人間が豊かさを求める時、豊かさの中に文化は絶対必要なんだと思います。そういうものを忘れて商売して、売ったり買ったり儲けたりということばかりだと、おかしくなってくるんじゃないか。だから私は、文化だ文化だと言ってきたわけですよ。文化を忘れちゃだめだよと。商人でも商人文化というものがあるんだと。

今ではこの街を歩いていても「あれ、これ自分の街だったのか」と思うくらいになってしまいました。それでいいんだろうか、という思いは今でもあります。吉祥寺はほとんどがお寺さんの土地で、借地なんですよ。だから商業活動をする時に、高い地代や家賃を払うためにはなりふり構っていられないみたいな考え方があるんだと思います。根底にはそういう事情があるんでしょうね。

街づくりを考える時に、「民意主導で行こう」「役人主導のまちづくりは絶対やめよう」という意見は結構一致して、何人かの親しい先輩たちの協力をいただいて進めてきました。近年では吉祥寺は、地続きの商人の方はほとんどリタイアして、ビルを持つ人はほとんど全部を貸してしまっています。それはそれで悪いことではないんだけど、地元の人の声が反映できない街になってはいけないんじゃないかなと思います。

吉祥寺は住みたい街ナンバーワンに何年もなったけれど、それを喜んでる場合じゃないよ(笑)。吉祥寺の良さを生かしきれていないんですよね。例えば、大きな資産である公園。昔あった南口と北口の分断の問題は改善されてきているけれど、南口は公園が真後ろにありながら公園を生かしていないと思います。公園の方に美術館や文化施設を持って来たりすればいいじゃないかと思いますけどね。吉祥寺が住みたい街として有名になった理由は、商業施設が多くて買い物が便利で、交通アクセスが非常に良いみたいなことだけど、そういうのはどこでもやることで、もっと大事なものがあると思うんです。

行政との関わりの中で感じたこと
行政と関わる中で、色んな障害にぶつかりまして。行政側は自分たちの責任もあるんだろうから、自分たちの決まりを徹底的に押し通してくる。ちょっと曲げれば非常に簡単になるものを曲げないというか。でもそれを曲げさせてきた方かな。

武蔵野市から文化イベントに対して出る補助金を使うのはもちろん大事だけど、補助金の出る範囲内でのイベントしか考えないというのは大きな間違いではないかと思います。自分たちのお金は出したくないと言っていたら、本当にいいイベントなんかできない。

吉祥寺音楽祭も、僕らがやっていた時は、日本中に広がる音楽祭にしようと言ってやっていました。でも、結局自分のところの範囲内で終わるもので終わってしまった。補助金が出るからそれを頂くのに頭を捻って、その範囲内でのイベントにするというやり方ではいいものはできないですよね。広告代理店にお願いすると何千万と要求されるから、それもできない。だったら自分たちで手作りでプロデュースしてやろうよというね。自分たちでお金も出さなければいけないけれど、市だけのお金じゃないんだから民間主導で行こうよ、と。そうでないと紐付きになってがんじがらめになるから嫌だって。やっぱり自分がそういう職業をやってきているから、そういう発想が出るんですよね。商人は意外と文化というものを分かっていないんです。だから「専門家のプロデュースを入れてやっていかないと本物にならないよ」と言うんだけど、「そんなお金はない」と言われる。お金がないのなら自分たちでお金を出せって言うと「嫌だ」って。それじゃあ育つものも育たない。そのあたりのギャップから、商店街にも結構閉鎖的、封建的なところがあるのかなと感じました。

(撮影:福田)

これからの吉祥寺に対する思い
今ではパルコの地下にアップリンクができて、アップリンクの浅井さんはミニシアターの先端をやってきた人だから、吉祥寺は映画的な要素としてはまあいいかな。ただ、市が運営する演劇専門の吉祥寺シアターが演劇用途での稼働をしていない。劇場を貸し出すばかりで、それでほとんど埋まってしまっている。演劇祭みたいな、下北沢に負けないようなことをやらなきゃいけないと思っている人がほとんどだけど、役人さんはそういう発想じゃないみたいです。もっとも、吉祥寺は下北沢に比べて演劇的土壌がなかったのか?とも思いますが。

吉祥寺は、公園をもっと生かした街づくりをするべきだと思います。年を取っていくと、穏やかな落ち着きのあるものもほしいし、たまに街に出た時にほっとするような場所がなくなったら、街にも出なくなってしまう。だからそういう場所は削ってほしくないと思います。公共空間というのは絶対必要なんだ。

やっぱり、今は地続きの商人がいないのでね。テレビはその時ホットなものや店ばかりを取り上げるけど、吉祥寺には歴史のある店も数か所残っている。歴史のあるものをなくさないような街づくりをしてもらいたいと思います。

そして、人間性を取り戻せる街であってほしいと思います。イベントをやるのも、色んな人が来て、人との交流の中で一緒になって楽しめるものにしたいという思いがある。やりたいこと、やってもらいたいと思うことはいっぱいあります。ただ、それがお金がないからとか、人がいないからできないとかではなくて、みんなでやろうじゃないかと。年寄りには年寄りの知恵があるし、若い人には若い人の情熱がある。みんなで一緒になってやればできないことはないじゃないかというね。そうやって、年代を超えてコミュニケーションができるような街づくりも必要ではないかと思います。やっぱり、ちょっとの間でもいいから生きてるなあと思う瞬間というのが街の中にもあってほしいと思うし。音楽でも映画でも美術でもなんでもいいですけど、そういう場所があってほしいと思います。

つまらねえ吉祥寺よ さようならだ。おもしろくいこうぜ。
(バウスシアターのスピリット)

聞き手・編集:福田、金子、平河 
文責:福田